亜ヒャの書き散らかし

はてなのお題、日々のあれこれ

周到な準備って何だ

 

数日前にこのtweetを見て以来『周到な準備』って何だと事あるごとに考えている。裏を返せば自分が不安な気持ちになってばかりいるためだ。

 

感情的にならない強い精神力→わかる。仕事の場で感情的になっても良いことは殆どない。自分も感情的になって相手に批判的な態度を取ったことが何度もあるし、相手に感情的な態度を取られたことが積もり積もって何もうまくいかなくなり会社を合法的に休んだこともある。

 

その都度周到な準備をし→わからない。何をすれば周到な準備なのか。準備とは不安をなくすために予め行動しておくこと。不安の数だけ行動し準備しなければならないとしたらどこまでやらなければいけないのか想像もつかない。不安に思ったことに対して全て対処しようとしていたら時間がいくらあっても足りない。

 

正しい判断をしてきた→これは数をこなさないと身につかないと考えられる。

 

ここまで書いて、周到な準備も場数を踏まないと上達しないのではないかと思い始めた。件のボスも最初から全てがうまく行ったわけではないだろうし、

 

ここで「誰にでも初めてはあるのよ流子ちゃん!」と嬉々としてメスを握る満艦飾好代さんが脳内に突然現れたので思考が中断する。ついでにマコちゃんも出てきて「みんな一緒にゴーツーヘルだ♪」と歌い出したりするのでちょっと今はご退場いただく。

 

件のボスも準備ができなかったゆえに失敗することもあっただろう。ただそこで不安の感情に流されないのが彼女の強みであり、次は同じことにならないように感情を取っ払って冷静に準備する→うまくいった又は別のところで失敗した→次は(略)を積み重ねる。

『私は人生で不安な気持ちになった事がない』も全く真実かどうかはわからないし、仕事場で責任ある立場に就いている以上は四六時中はったりが必要とされるだろうし、何よりリーダーが不安がっていては部下も困ってしまう。

不安材料を頭の中に溜め込まずに行動に移しアウトプットすることで、その分頭の中に余裕が生まれる。その余裕を使って正しい判断を行い、これも積み重ねる。その循環で仕事が回っている—という仮説に至った。

 

私は何かのリーダーになる予定は特にないが、不安は少ないに越したことはないし、不安で脳内の思考スペースを潰されるのは非常に勿体ないと思っている。

 

つまりあれだ、薄々気づいてはいたが計画性がない。以前のブログでも散々自問自答していたが目標を立てるのが苦手だ。目標もなければ計画性もないから何かを準備しようにも何をしたらいいかわからないし精度も悪くなる。従って失敗することも多い。そして漠然とした不安に苛まれつつ行動も起こせない。結局のところ、『失敗するくらいなら何もしないほうがまし』みたいな感じになって一日が終わる。良くない。

 

まずは一週間の献立と何曜日に部屋のどこを掃除するか、あと会社に着て行く服を決める計画から始めようと思う。

今週のお題「お花見」

職場の建物近くに桜の木が一本だけある。花見の名所にあるような大ぶりなものではないが、ビルの正面玄関脇に植わっている。

 

出勤時はオフィスに辿り着くことで精一杯のため全く見ていなかったが、仕事の帰りに桜が七分咲きくらいまで来ていることに気づいた。そして木を見下ろせる階段の上からスマホのカメラで桜の写真を撮っているスプリングコート姿の女性を見かけた。しかし丸一日、一秒ごとに酸素が薄くなるのが目に見えてわかるような人口密度の高い会議室に籠って疲れた脳には『この人家に帰って(なんなら今すぐにでも)SNSに写真を上げたりするんだろうな』というキラキラな人を揶揄する思考しか浮かばない。当方どちらかといえば写真を撮っている人を撮るツイッタラーになるほうだ。スプリングコートは10年前に買ったが新調していないので一周回ってまた着られるかもしれない。そういえば何年か前「◯◯を撮る△△を撮る◎◎」のような構図がtwitterで流行った記憶がある。閑話休題

逡巡しているうちに、写真を撮り終えた女性は去っていき、私も申し訳程度に桜の写真を撮って帰途に着いた。

 

桜の下で酒を飲むよりは、桜並木の道を運転し、信号待ちでフロントガラスに落ちて来た花びらを見て雅を感じるなあとここ数年思っている。幸いにも近所にちんたら走っても怒られない花見にお誂え向けの道路が何ヶ所かある。一家に一台ではなく一人に一台車がないと生きていけない田舎ならではの楽しみ方かもしれない。ただし、気分が良いからと車の窓を全開にして走っていると思わぬところからバッタ等の侵入を許してしまい、車内が阿鼻叫喚となるのでそれだけは避けなければならない。

今週のお題「ねこ」

我が家にもねこがいる。私よりも家のことを良く知っている。

 

「いずれはねこがいる暮らしをしたい」と日頃から周囲に漏らしていたところ、里親募集の知らせを聞き、面談の上私の仲間になった。好きな食べ物は茹でた鶏肉と煮干しと海苔、恐らく生後三ヶ月ほどで親とはぐれたと思われ、今でもたまに着る毛布に頭から突っ込んで毛布を吸っている。何も出ないのだが。

 

慣れ合って撫でさせてくれるのは私が仕事を終えて「ただいま」と言ってからの三分くらいだ。三分経つと現実に引き戻される仕組みになっているのか、何もなかったようにその辺を歩き出す。なおたびたび脛をかじられる。物理的に。

 

その割に、心身が弱っていると気がつくと近くに来て座っている。私に背を向けて「慣れ合うつもりはない」という雰囲気を出しつつも耳だけはこちらを向いている。

今週のお題「表彰状」

自分の意志とは関係なく人の褌で取った相撲で表彰されたことの多い人生である。

 

 

何の成果も得られませんでした

読書感想文をはじめとした何らかの作文、自由研究、習字、図工の作品。全て周囲の大人の手が八割方入ってこね回され『小学生らしさ』のテンプレートに押し込まれそれでも大人の手の名残をはみ出させながら、毎年最低でも地区の大会では何かの賞に選ばれたものの、全校生徒の前で表彰状を貰っても正直嬉しくも何ともない子ども時代を過ごしてきた。

ひとえに周囲の大人が満足しただけで、本人としては引きつった顔で『何の成果も得られませんでした』と胸を張って言うことができる。今でも結婚式の受付で名前を書くとき等必要に迫られて筆を持てば全く書けないわけではないが二度書き・修正は当たり前だし、パソコンを使うことが増えたため普段自分で意識して文字を書く機会が随分減り、たまに取るメモは10分経つと何が書いてあるかわからなくなる。手帳も毎年買い替えているが、最初の一日だけ綺麗に書いてその後は大体枠からはみ出している。線を引けば必要もないのに右上がり、組み立て家具は全て友人に謝礼を出して外注か、でき上がったものしか買ったことがない。

そんな中途半端な状態であることを自覚しつつも読んだこの本で我が身を省みることになる。

 

読書レビューとも言えないようなものだけど何か書き残したかった

まず、途中に挟まれる『悩み相談108本ノック』で使われているフォントが大きい。後半になるにつれ内容が重く際どくなり、特に重要な部分は通常のフォントの三倍は大きいため、ページをめくった途端挙動不審になるかもしれないし、通勤中に読むときは背後に注意したほうがいいかもしれない。小心者なので私はできるだけフォントを小さくして読んだ。

自分の作品に自信のない美大生に向けディムさんが『納得のいかない仕事はどこかで手を抜いた仕事。相手にほめられても響かないし、納得のいかない自分がほめられるだけ。だからそのときどきで自分で納得のいく仕事を積み重ねていく』という主旨のお答えを返すところを読んで、ああこれだと膝から崩れ落ちるような思いだった。座っていたのに。

表彰された物事は、大人の手が勝手に入ったとはいえ自分が手を抜いた結果であることに変わりはないし、だから納得がいかず嬉しくも何ともなかったのだと腑に落ちた。他の悩み相談に対するお答えもじわじわ沁み入るものだったが、この相談とお答えが個人的に飛び抜けて記憶され、最終的には納得のいかない当時の気持ちを故郷の村ごと脳内で焼いた。恐らく物置にしまわれているであろう、ストックされた表彰状が綴じられたファイルも焼いた。

 

焼け野原で思うこと

大人になると誰かに表彰されるような機会は自ら作っていかない限りなかなかないし、特にわざわざ表彰されたいというほどの気持ちも持ち合わせていないが、どんな些細なことでもそのときどきで納得のいくことをしていけば、この中途半端な気持ちも端から成仏させていくことができるのではないか。そのためには入念な準備や知識、やっつけにならないためのマインドセット作りなど一朝一夕にはできないことを多々やらねばならない。それでも、手を抜けない代わりに余計な手が入らないことは喜ばしいと捉えたほうがいいだろう。

今週のお題「バレンタインデー」

せめて1000字くらいは書いてみたい。

 

亜ヒャ 高校の記憶

高校時代、魔が差してトリュフを作ることにした。

とはいえ当時は僻地に住んでいたため、近所の小規模なスーパーでは量産型チョコレートこそ売られてはいるが製菓の材料などは売っていない。数少ない街住まいの友人を頼って家から車で一時間弱のところにある比較的大きめのスーパーに出向き、製菓用チョコレートやラッピング用の袋などを購入した。今は身分証のチェックなどがあって未成年だけでは購入できないかもしれないが、初めてブランデーを買ったのもこのときだ。スーパー内に入っている酒屋の女主人に恐る恐る「調理用のブランデーありますか」と聞くと、「あらあらうふふ」と言わんばかりの表情でウサギの絵のついた小瓶を出してきてくれたことは鮮明に覚えている。

当時は真面目に材料を計って作ったおかげで見た目も味も割と出来の良いトリュフができたが、残念ながら何の発展にもつながらなかったし、その後自分でブランデーを買ったこともない。

 

亜ヒャ 大学の記憶

大学時代にも友人向けにチョコレートを加工したことがあったが、結果から言うと、控え目に言ってバフソ様であった。

製菓は何よりも材料の計量と温度調節が肝心なのにもかかわらず、普段の料理同様「目分量で十分だ」とチョコレートをこね回してスプーンで形を作ろうとしているうちに、たとえ製菓用の割れチョコといえど加工する前のほうが間違いなく見た目も味も良かったであろう物体が錬成されてしまったのだ。砂糖が多くて溶かし切れずやたらざらついている上に、レシピ通りに作れば滑らかだったはずの表面はひびしかない。そしてあのひびの惨状を形容するのに『冬場の肘』などという喩えしか出てこない自分に腹が立つ。

無駄なあがきとして半透明の袋で包装し、開ける直前までその形状がわからないように努めたが、今にして思えばみんなよく食べてくれたものだ。

 

亜ヒャ 社会人の記憶

バレンタイン?何それおいしいの?という風土の職場に入ったおかげで、幸いにも男性上司及び同僚向けの義理チョコに義務感を覚えずに生きてくることができた。どちらかというと、バレンタインよりも、魔法使いコスと黒猫コスの上司(共に男性。共に仕事ができる。共に人柄が良い)が昼休みにお菓子を配って回るというイベントが発生するあたり、ハロウィンのほうが重要視されていたような気もする。

何それおいしいの?とはいえ、毎年年明けから二月にかけて海外出張する同僚が男女問わず周囲に何人かいたため、「空港で売っているギ◯デリの60%カカオのパックを買って来い」「もしなければキャラメルが入っているやつでもいい」などと要求する側に回っていた。これも今にして思えばみんなよく買ってきてくれたものだ。というか『みんなで美味しいもの食って機嫌良く仕事しようZE』という雰囲気で満ちていた。イイハナシダナー

 

終わりに

作るのも買うのも好きにすればいいし、個人的には季節の美味しいものを食べられればそれでいいと思っている。ただし、ぱっと見がアレなのでリンク等は貼らないでおくが、いろいろなところが詰まって大変なことになるから失敗したチョコレートを排水口に流すのは駄目、絶対。

亜ヒャの書き散らかしについて

 

書き散らかすことにした理由

最近、取り立てて文章らしい文章を書いていない。そのくせ自分では『文章が上手くなりたい』とか『将来的には文章を世に出して何か残したい』とか考えている。一方で、日々思うことについて、定期的にアウトプットをしていかないと何も残さずにお婆さんになってしまうという危機感だけはぼんやりと持っている。

とはいえ、全く何もしていなかったわけではない。10年以上前から、好きな本とフィギュアスケートと身の回りで起こった出来事と過去の自分の記憶を吐き出すような記録はあちこち場所を変えながら綴ってはいた。しかしそれらはただ『記した』だけで何か自分の血肉になっているかといえば必ずしもそうではない。今回、既存のブログをリサイクルするかどうかの処遇を決めるため数年ぶりに過去のブログを開いたのだが、そこに記された自分の暗い記憶とそこから生じるものの考え方・今後の生き方についてのポエミーな決意表明を見るなり、安西先生のように「まるで成長していない…」と呟いた。ものの考え方は数年前とさっぱり変わっていないし、今後の生き方も具体案が何一つない上に書きっぱなしにしていたため、今もほぼ同じことで悩んでいることがわかったのだ。削除はしていないがあまりにもポエムと自己憐憫が過ぎるため非公開にした。

気に入ったアニメを何度も観て台詞を暗記するように、何事も繰り返さないと定着しない。同じようなことを何度も書くかもしれないが、それもアウトプットの一環であり、自分がより文章に対して強くなるための勉強だと思って行うつもりだ。向上を目指すつもりがベクトルを誤った挙げ句バイクで事故死という形で世に残ることは避けたい。

 

ここで書くこと

  • はてなのお題
  • 日々のあれこれ
  • twitterで書き切れなかったこと